日月美術館_企画展

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野口小蘋・小蕙 草花展

平成29年5月~

野口小蘋 (のぐちしょうひん)

弘化4年(1847年)、徳島出身の古医方松邨春岱(まつむらしゅんたい)の長女として大阪難波に生まれ親子(ちかこ)と名付けられた。幕末期にあたる幼少時から詩・書・画に親しみ才能を示す。16歳で画の修行のため父と北陸を数か月に渡り巡遊。このとき福井藩の絵師島田雪谷から画の手解きを受けている。この北陸の旅の途次、父の春岱が客死。残された母を養うために慶応元年(1865年)に近江八幡へ遊歴し売画している。
慶応3年(1867年)には京都へ移り、関西南画壇の重鎮である日根対山に師事し、4年の間に山水画・花鳥画を学んだ。
明治4年(1871年)に上京、麹町に住んで画業を本格化。美人画や文人の肖像画などの人物画を多く手がけている。明治6年(1873年)、皇后御寝殿に花卉図8点を手がけている。
明治10年(1877年)、31歳で野口正章と結婚、翌年に娘の小蕙が生まれる。野口家はいわゆる近江商人の家柄で滋賀県蒲生群桜川村(現・東近江市)に本家を置く酒造業「十一屋」を営み、甲府柳町(現・甲府市中央4丁目(大正13年に甲府市横沢町(現・朝日3丁目)に移転)に営業所と醸造工場があった。
小蘋は明治8年から野口家とも親交のあった甲府横近習町の商家である大木家に滞在しており、明治11年(1879年)には一家で甲府へ移っている。
夫の正章は新しい事業としてビール醸造に着手していた事業に失敗して廃嫡となり、明治15年(1882年)には一家で再び上京する。
英照皇太后に作品を献上し、皇室や宮家など御用達の作品を多く手がけた。明治32年(1889年)に華族女学校画学嘱託教授を務め、明治35年(1902年)には恒久王妃昌子内親王や成久王妃房子内親王の御用掛を拝命する。明治37年(1904年)4月16日には女性初の帝室技芸員を拝命し、翌年には正八位に叙せられた。明治40年(1907年)、文展審査員に選ばれる。
大正6年(1917年)2月、71歳で死去。



002.JPG「扇 清風」


008.JPG「松竹梅小枝図」

野口小蕙(のぐちしょうけい)

明治11年(1878年)1月11日に滋賀県蒲生群綺田村(後の桜川村、現東近江市綺田町)で酒造業を営む十一屋の跡取りである野口正章(1849年‐1921年)の長女として生まれ、郁子と名付けられた。母は奥原晴湖と共に明治女流南画家の双璧といわれる野口小蘋(のぐちしょうひん、1847年‐1917年)である。
十一屋は甲斐国甲府柳町(山梨県甲府市中央)に出店があり、正章一家は小蕙が生まれた年に甲府の店を任され家族で甲府に移り住んだ。明治15年(1884年)正章一家は東京に転居し、以降小蕙は東京で暮らし、画業は母から習い絵画共進会などに入選を重ね、母である小蘋が、明治27年(1896年)には日本南画会を児玉果亭、小室翠雲、松林桂月らと共に結成すると小蕙も参加し、明治30年(1899年)には小蕙21歳で日本絵画協会の第2回絵画共進会に「花卉」で二等褒状を受賞した。
日本美術協会・日本画会会員となり、花鳥、人物画を得意とし度々皇室御用品として用いられ、画家として名声を馳せた。日本南画会設立の同志で文展審査員を務める小室翠雲(1874年‐1945年)と結婚するが、後に故あって離別した。大正12年(1923年)関東大震災後小蕙は兵庫県西宮市に移転し、同地で画業を追求した。偶然ではあるが、昭和20年(1945年)3月30日、前夫小室翠雲が死去すると、3日後の4月2日に野口小蕙も脳溢血により死去した。



018.JPG「蘭 菊」